2024超人気 書簡●明治5年3月4日 米国華盛頓府(ワシントン)に住むランメン妻より津田氏の妻(津田梅子の母)に来翰の訳 2丁 230505 古文書 和書

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最終更新 2024/07/11 UTC

商品の説明

 
				            書簡●明治5年3月4日 米国華盛頓府(ワシントン)に住むランメン妻より津田氏の妻(津田梅子の母)に来翰の訳 2丁 230505 古文書_画像1                                    書簡●明治5年3月4日 米国華盛頓府(ワシントン)に住むランメン妻より津田氏の妻(津田梅子の母)に来翰の訳 2丁 230505 古文書_画像2
この手紙は、津田梅子が明治4年に他の官費留学生とともに岩倉使節団に随行して渡米した時にホームスティしたランマン氏の奥さんが梅子の母宛に送った手紙の翻訳文です。
翻訳したのは、父の津田仙であることが津田塾大学に問い合わせて教えて戴きました。
また「1872(明5)年3月4日付 ランマン夫人より津田初子宛書簡」の翻訳文は、『新聞雑誌』40号(明治5年4月発行)に掲載されていました。
オリジナルの書簡を津田仙が翻訳し、当時創刊されたばかりの『新聞雑誌』に掲載されたと伝わっています。(残念ながら原文は伝わっていません)ということも教えて戴きました。ありがとうございました。

この文書は、軍医頭松本順が明治3年10月早稲田の地に開院した蘭疇病院で医者をしていたと思われる原祐民温が明治5年に書き写した医学書と一緒にありました。
しかし誰が書いたのか不明です。
なお原医師は、現在の長野県伊那市のご出身であることが、医師名簿から判りました。
地元では有名人だそうです。

大変貴重な文書だと思います。

多くの方にご覧になって戴き貴重な資料がご研究のお役に立てればそして、故郷に帰る事ができれば大変嬉しいです。
サイズは16.5×24.4㎝です。
写真にあるスケールは全長17㎝です。
状態は経年によるシミヤケがあります。
発送は追跡可能なクリックポストを予定しています。


官費女子留学生(留学期間は10年)に提示された待遇は「日本政府が旅費・学費・生活費を全額負担した上で、さらに奨学金として毎年800ドル[注 4]を支給する」という破格のものであったが、10年間の留学によって結婚適齢期[注 5]を逃してしまう危惧もあり、官費女子留学生の募集に応じたのは、明治政府から冷遇されていた旧幕府側(幕臣または賊軍)士族の少女5名のみであった[24]。
  1. 上田悌子[注 6](幕臣・上田畯の娘[30][31]、満14歳[24]〉
  2. 吉益亮子(幕臣・吉益正雄の娘[31]、満14歳[24])
  3. 山川捨松(会津藩家老・山川浩の妹[31]、満11歳[24])
  4. 永井繁子(幕臣・永井玄栄の養女[24][31]、かつ幕臣・益田孝の実妹[24][31]、満8歳[24])
  5. 津田梅子(幕臣・津田仙の娘[31]、満6歳[24])
※各人の満年齢は、日本を出国した新暦1871年12月23日現在[24]。
開拓使は応募した5名全員を官費女子留学生に推挙し、正院にて承認された[20][32]。
出発に先立ち、女子留学生5人は士族の女子としては歴史上初めて皇后への拝謁を許され[33]、明治4年11月(旧暦)に他の官費留学生とともに岩倉使節団に随行して渡米した。
新暦1871年12月23日(本節は以下新暦で記す)に横浜を出港し、1872年1月15日にサンフランシスコに入港[34]。同年1月31日にサンフランシスコを5両編成の貸切列車で出発し、大陸横断鉄道を経由してワシントンD.C. ヘ向かったが、40年ぶりとされる大雪により日程が遅れた(ソルトレイクシティで18日間待機)[35][36]。2月25日にシカゴに到着、翌日の夜にはワシントンD.C.に向けて出発した[37]。5人の女子留学生はアメリカに到着後もなかなか洋服を買ってもらえずにいたが、岩倉具視に談判の末シカゴでようやく洋服を買い与えられた[37][注 7]。シカゴで撮影した、洋装に着替えた5人の記念写真が残されている[39][40]。

第二の両親、ランマン夫妻[編集]

新暦1872年2月29日にワシントンD.C.に到着すると、梅子は吉益亮子と共に、ワシントンD.C.近郊のジョージタウンに住むチャールズ・ランマン (英語版)(1819年[41]-1895年[42])に預けられた[40]。著名な画家・著述家・旅行家であった[注 8]ランマンは、当時、日本弁務使館書記官(Secretary of the Japanese Legation)を務めていた[40][注 9]。ランマン夫人(Mrs. Adeline Lanman[45], 1826年[41]-1914年[42])は、ジョージタウンの裕福な家庭に生まれ、高等女学校に相当する学校を卒業した女性であった[41][注 10]。新暦1872年5月1日には駐米少弁務使森有礼の斡旋で、留学生5人はワシントン市内に集められて同じ家に住まわされ、生活に必要な最低限の英語の勉強をさせられた[46]。同年10月末(新暦)には、上田悌子は体調不良を、吉益亮子は勉強に支障が出るほど目を悪くしたことを理由に帰国した[47]。残った3人が梅子、山川捨松(のちの大山捨松)、永井繁子(のちの瓜生繁子)である。この3人は生涯親しくしており、梅子がのちに「女子英学塾」(のちの津田塾大学)を設立する際に2人は助力する(→#女子英学塾を創設)。出典:ウィキペディア


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